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エトセトラ♪

いじめについて



「いじめ」について

このページ付属の掲示板



「いじめ」については毎日のように事件が起きたりしているので気になっています。
そこで何らかのお役に立てないかという観点からこのページを作ってみました。

(1)

とりあえずまず手始めとして、いじめについての記事が目に留まったので 一部抜粋だと誤解が生じる恐れがある為
その日のコラム一つ全体を長いですが紹介しておきます。これは皆さんに「いじめ」に対して
問題意識を持つ事を期待して引っ張って来たものです。
が、JUNはこのコラムに対して一部同調意見は 持っておりません、杉田敦氏には申し訳ないですが(ペコリ)
ソース:朝日新聞(2006/12/28)の16面、政治学者 杉田敦氏の「論壇時評」(朝日新聞様、ありがとうございました。記事を尊重して太字の記述はそのまま採用。)


論壇時評

〜いじめと日本社会〜
同調主義の学校空間
自己承認の誤解生む

学校でいじめられた子どもたちが、自ら死を選ぶ不幸な事件が続いた。こうした場合、テレビ等のメディアは、 いじめを把握せず、対応が不十分であったなどとして、教師や学校に批判を集中しがちである。教育現場が機能していないという印象の広がりが、教育基本法改正など一連の「改革」を後押ししている側面もある。

報道の手法に注意

確かに、現場の対応にも改善が必要であろう。しかし、反省すべきは学校だけか。高橋祥友は、 ある人物の自殺が複数の自殺を引き起こす「群発自殺」は、メディアのセンセーショナルな報道によって 誘発される面があるとする(「悲劇の連鎖を起こさないために」論座1月号)。
内藤朝雄も、藤井誠二との対談で、「メディアの影響で自殺が連鎖するというのは、そもそも 心理学とか社会学では常識の部類です」とし、ここ十数年の統計を見ても、盛んに報道された自殺事件の 度毎に急激に自殺件数がふえていることを指摘する(「今のいじめ自殺報道はこんなに 間違っている!」創1月号)。
もちろん、単に報道しなければよいということにはならない。それでは、深刻ないじめなどの問題が人々に 共有されず、対策も講じられないことになってしまう。高橋は、海外の自殺予防学会が行った提言を紹介 している。それによれば、「自殺の手段を非常に詳しく」報じたり、「自殺を過度にロマンチックに」 報じたりすることは避けなければならず、「自殺以外の他の合理的な解決策を提示」したり、「危機的状況に 陥ったものの自殺ではない他の方法で解決した具体例を挙げる」などが望ましいとされる。
日本の新聞等は、最近、いじめ被害者に対して「死ぬな、がんばって生きろ」というメッセージを流す 傾向にあるが、これについて内藤は、「法による加害者の処罰」といったさまざまな方向性を封印し、 「被害者個人が死ぬか死なないか、というモデルに絞り込む」点で、「自殺を煽る報道と一緒」であるとする。

「がんばれ」は論外

藤井も、精神医療の現場では、「死にたいんです」と相談に来た人に、「がんばってほしい」などと言うことは、相談者をかえって追い込むので論外とされている、と応じている。いじめられている子どもの心の問題に 還元するのでなく、「他の合理的な解決策」を追求するような方向性に持っていく必要があるということだろう。
それにしても、いじめはなぜここまで蔓延するのか。中島義道は、「わが国の国土をすっぽり覆っている、いや日本人のDNAの中に染み込んでいるとすら思われる『みんな一緒主義』こそ背景にあると言う。」 (「いじめの『本当の』原因」新潮45、1月号)。学校では、「給食もみんな一緒、掃除もみんな 一緒、運動会もみんな一緒」と、あらゆる事項について集団行動を強要され、そこからはみ出す者は厳しく 指弾される。こうした「協調性の欠如を非難する態度から」いじめは生ずるのであって、いじめられる側の 「協調性の欠如」に原因があるわけではない。
「周囲が魔女裁判に熱病のように浮かされているとき」にはそれに協調しない方が正しいように、 「協調性にはそれ自体としての道徳的価値はない」にもかかわらず、日本ではとりわけ協調性幻想が強く、 そのために、「多くの人はいじめられ集団から排斥されると、もう生きていけないと思い込んでしまう」と 言うのである。

他者の評価おそれ

土井隆義は、いじめの存在を知りながら、あえて傍観したり、暗黙のうちに加担したりする者が なぜ多いかを追求する(「『優しい関係に窒息する子どもたち」世界1月号)。
今の若者たちは、「たえず場の空気を読みながら、友人との間に争点をつくらないように心掛けている」。 それは、社会が複雑化する中で、「お互いの価値観や欲求の内実もかつてより多義化してくる」にもかかわらず、そうした差異が対立につながり、他者から否定的な自己評価を受けることを極度におそれているからである と言う。
友人たちと対立のない「優しい関係」を維持したい人びとにとっては、いじめられっ子の存在は好都合である。 そのような存在を集団から完全に排除せずに、「半ば包摂」したままで、いじめ行為の対象にすることに よって、「『優しい関係』を営んでいる人びとの内部に孕(はら)まれた対立軸」を隠蔽することができる からである。国外に敵を設定して国内格差を隠すナショナリズムにも似ているかもしれない。
土井は、メディア報道を受けて連鎖的に自殺した子供たちの心理にも踏み込む。彼らは、「死への衝動に 対する単純な刺激」を受けたというよりも、「自殺した生徒たちを嘆き悲しみ、その短い人生をいたむ 周囲の人びとの姿を目の当たりにして、ここに究極の自己承認があると誤解してしまった側面も あるのではなかろうか」と言うのである。
この関連で、香山リカは、「死をもって自分を苦しめた人に一矢を報いたい」と考える人びとの 間に、「死んだ後も何らかの形で視覚や意識は残るに違いない」ので復讐の結果を自分で確認できるという 想定が広がっているのではないかと述べ、「死後の世界」の存在を無責任に若者に信じさせるメディア状況を 批判する(「いじめ自殺とスピリチュアリズム」創1月号)。
極度に同調主義的な学校空間がいじめを生み、閉塞状況の中で、自殺が逆説的にも自己承認の手だてと 捉えられる。こうした負のプロセスへの対策として、学校の規律強化という「改革」路線の限界は 明白ではないだろうか。



なぜこの記事が気になったのかと言うと、前日12月27日に放映された「オーラの泉」
ちょうどいじめについて江原さんと美輪さんが"くっちゃべって"いらっしゃったことがあったからだ。
番組の中でお二方はそれまでの一部の誤解・・・

つまり一昔前までは前世だ、霊だの「スピリチュアル」 の世界はオカルト的なもので、興味本位の話題であり、実生活とは全くもってかけ離れたおとぎ話で、 娯楽のようなもの、そして今自殺しようとしている若者に対しては「死」に対して抵抗感を薄れさせ 自殺に対し背中を押す役割となっている、などと言う誤解・・・

に対しそれを解きたい、とお話をされていたのを観ていたからだ。
私JUNも、100%そういったものを信じるかと言えばそうとも言えない。
だが様々な根拠をもっても否定しようの無い 江原さんのお話を聞くと、
それまでの怪しい(笑)占い師などが放っていたアブナい雰囲気を払拭し
通常観念・・霊の存在はオカルト的・興味本位的なものだという前提は無くなり、
江原さんのお話自体を良心的で説得力のあるものにさせている。
つまり江原さんや美輪さん方は、みんなに、

よい人間になりなさい。心優しい人間になりなさい。

と当たり前の事を仰っているだけなのである。
それにそういった前世だ守護霊だのお話を江原さんの仰る事の中から排除しても、
それでも人間の普遍的な 問題・・「人はどのように生きるべきか」・・という問いに対し
かなりほかの方達よりは明確に答えている感はある。
だからこそ霊を信じる人もそうでない人も、人生を丸ごと前向きに捕らえる江原さんのお話を、
人間の良心的な心の部分で解釈する事が出来るのだと思う。
だから私は江原さんに対しては、すべての人間に対し思い出すべき素晴らしい教えを広めて行っている
「近所のおばあちゃん」的な役割をしているのではないか、と思っている・笑。


その江原さんや美輪さんは番組の中で、こんな事をおっしゃっていた。


そして「このことを周りはきちんと教えていない」と。

大人になるとこんな事は自発的に考えることが出来るし、
ある程度の自浄作用が働いている集団・・職場など・・も見受けられる。
(そうでない・・自浄作用の働かない・・集団もいるが。これが色んな方達が述べている、
「大人世界にもいじめはある」の根拠である。(よくTVのコメンテーターが説明してるけどね・・)
しかしここで★ちょっと一言★言いたいのです。

私はこの「大人社会にもいじめはある」という言葉は大嫌いだ!

学校を卒業し大人社会に出れば、また(!)そこではいじめワールドが 繰り広げられ、
今まで散々嫌な思いをしてきた子供たちが、またそこで「やられる!」
なんてこと考えそうな気がして、本当に気の毒だからだ。
確かに、存在するのだろうけど、全部が全部じゃないんですよ!!!
現に、私は社会に出て本当に色々な仕事や職場に行ったけど、
はっきりそれとわかる「いじめ」現場には出くわしませんでした!!!・・・言い過ぎかな?
と言うより、あっても私が自然と跳ね除ける、っていうかいじめようにも私をいじめるものなら
自らの首を絞める、といったような状況になるように、あらかじめ手を打っておいたわけですよ。

私はたいてい、どの職場に行ってもそこそこ仕事が出来てしまってたんです(最初はあんまり感じが良く無いですけどね・・)。
手先が器用というか、(お客様の為に)頭が回るというか。←←自分で言うな!!(笑)
後から入って来て、すぐに先輩達を追い越し、仕事が出来てしまう。
お客様商売の時は、すぐにお客様に気に入って頂ける事もありました(嬉)。
これなんか、いじめのターゲットになるそのまんまでしょ?
初めから居た人にはこんなムカつく事はないでしょ。(良質でない人がこんな事を考えるんだけどね。 良質な人間なら、いい所は盗んじゃえ!くらいに思って陰湿に嫉妬はしないです、ハイ。)

やはりね、仕事をしている以上は、きっちり勤めたい!
日々の職務をきちんとこなし、お客様のお相手をする必要があるものならその方の為に尽くす。
当たり前の事をきっちりこなす事がまず第一だと思います。
そしてそれをきちんと会社上部にアピールしておく。
アピールの仕方も、お客様から自然と「このコは素晴らしいよ」と言ってもらえるように
心からもてなすなどの努力をする(格好は一生懸命でも心がこもってないとすぐわかりますから)。
勿論、悪い意味での仕事人間とはならずに、同僚にも明るく挨拶したり、
先輩方を敬う事など、これもまた重要で当たり前の事です。
まあこんな感じで、陰湿な性格の人からジクジクいじめられる要因をあらかじめ少なくしておくのです。

それに私だけではなく、色々友達に聞いても、いじめのある職場はそう無いといいます。
だから、全ての職場でいじめがあるわけではないんです!
だから大人社会でいじめがあると言う場所は、そういう場所なんです!!
良質では無い人間があつまっているから、そんな陰湿な出来事が起きちゃうの!
フツーに良心を持ってて、フツーにいたわりの心があれば、
フツーに「いじめ」なんて、起きないもんですよ!!!

「オーラの泉」で美輪さんが良く仰っているけどつまりは、

類は類を呼ぶ

って事なんですよ。
良質な人間には良質な人間が集まり。
悪質な人間の所には悪質な人間が集まる。
だからね、「いじめ」のある職場っていじめの 傍観者も含めそういう人間が多く集まっている場所です。
★ちょっと一言終わり★


しかし私から言わせれば、自分の考えで行動できる大人の社会の中で
いじめが蔓延している集団は、よっぽどタチの悪い大人が複数集まった集団ではないかと思う。
仮にそうしたい(人をいじめたい様なタチの悪い)人がいたとしても、それより多く良質な人間がいたなら
まず「雰囲気」が良いはず。そしていじめを仕掛けるタイミングや状況も無い。
良質な人間は そういう下品ないじめの行為などは同じ場に居る自分達のレベルをも下げさせるもの、と考える。
そしてそういう職場ではお互いに切磋琢磨し、より良き方向へと意識が向いているし、
折角の良い職場を潰さないように、という無意識な雰囲気もある。
勿論、そうでないレベルの低い職場もあるのだろうけど、とりあえず大人の良質な人間が集まった職場では
自然と「良」を極めていくという無意識共同作用が働いていると思う。

しかしそういった自浄作用が働く事のできる大人の集団とは異なり
学校といった特殊な現場では事情は異なってくるのだと思う。
当事者である生徒自身が率先して「良質」な雰囲気のものに向かっていくのは難しいからだ。
つまりある程度の教師のガイドが必要だということだ。
傍観者まで発生するという「悪質」「陰湿」なものに誤って向かう事があっても、
まだ精神的にも未熟な生徒たち自身で「良質な」方向へと
自浄作用が働くように進むのはかなり難しく、
しかも教師が発見するまではその病状が進行するというところだ。

今問題となっている学校には、よっぽどのリーダーシップの取れる、
TVの橋元弁護士がよく言う「ジャイアン」みたいな子がいなければ、
大人の様にはなかなか自発的な自浄作用は期待できない。
そこで自浄作用に代わるものは教師(先生)なのだから
教師がきちんと「いじめは心の粗末な者がするもの」
「お互いにいたわり合いの気持ちを持って」などと
内面的に未熟な子供達を良い方向に導いていればなかなかいじめっ子の出番は少なく、
そういった釘を刺しておく事だけでも少しは「いじめ」の抑止力につながると思う。

またもう一つ、先生と生徒達とのコミュニケーション不足というものが発生していると
発見そのものが難しくなっていく。
大抵は、先生は生徒間にいじめがあるな、とわかる(分からなければ相当ヌけている・笑)。
しかしそれほどいじめ解決に積極的になれない担任に当たってしまうと最悪の場合、放置である。
日々の仕事に追われ・・・手を入れなきゃいけないなぁ、と思いつつも放置である。


(2)教師



「教師」もかなりしんどい職種である。(本気でこの職を生きているものならば・笑)
本当に子供の事を考えこの仕事に没頭するならば、自分の時間はまず無い。
部活動の顧問を担当しているならば普段の仕事にプラス、
部活動の世話(普段の活動の監視、そして時々の遠征準備など)も入る。
ま、はっきり言えばボランティアとして自分と自分の時間を子供達に捧げると言っていいほどの職業である。
時間制限ナシのエンドレスな仕事だ。

だから少し先生方を擁護してみると、常時・・というか、 ほぼ24時間でしょうな・・・膨大な仕事量を抱えているわけだから、
そう簡単にいじめ問題に取り組む事は困難な事だとわかるはずだ。
(というか、面倒臭いのかな・・)
膨大な仕事量というのは、先生が家に帰ってからの脳内作業・・つまり、
出来が悪い子をいかにフォローすればいいかとか考えたり、
どういった問題が生徒を引き上げる力になるか、とか
家へ宿題を持って帰るサラリーマンのごとく、
結構教師も家でゆっくり休めたものではない。
夜中の産科の先生のように家に帰っても待機、という格好にほぼ近いのだ。
だからよっぽど教師という職業に適正が合ってなければ
恐らくジゴクだろうと思う。
教育学部を出て教育実習までして、それでも学校教師がいかにしんどいか分かっているから
教師にならない者もいる。
それほど今の言葉で言えば、結構きっついわけだ。

だから先生方に生徒達を良い方向へ導いてもらう為には、
(この時点で家でのしつけや教育はどこかに行っちゃってるけど・笑)
やれ学校だ、先生だ!といじめが起きた時に責め立てる事ではなく、
先生達が「いじめ問題」に対し対処を施し易い環境を整えてあげるとか、
いじめを報告する義務を負わせる事、そしてその解決は担任のみでなく、
せめて学年の先生全てで分担して当たるなど、報告を苦にならないような工夫をしてあげるなどを
考えてあげることが必要なのではないでしょうか。
勿論、先生方の質は必ず良いものが前提ですけどね。
(最近は免許制などが討論されているが、この「質」の判断は困難を極める、
というのも、去年2006年は教師がいじめに加担していたというものもあった。
生徒たちを良い方向に導く先頭の教師がそれだともう論外(呆)。
彼らがどんな思考をもっているか、など測れやしないからだ。)

また、その教師そのものが未熟な状態のまま教壇に立つということも問題である。
大学を卒業後、すぐ教師になって社会に出る事も多い。
大学で学生生活を送っただけのまだまだ幼稚で人生経験の浅い者達が
いきなり教えだすのだから、学業は良い方向に向かうのだろうとは思うが、
学業以外のもの・・・小中学校なら道徳や、人間の心の持ち様、あり方など
言葉の端々で表現されるそういったものの「先生」としては少し不安なのは否めない。
そこでどうだろう、教師として教壇に立つ前に3年ほど普通のサラリーマン世界などで
働いてみるというのは。
または福祉施設とかでもいいな、情操的に豊かになれる所がいいと思うな。
とにかくフツーのいたわりの心を持って、フツーの優しさがあれば
十分なんだけどな。


(3)コミュニケーション下手



ここ数年(10年ほど?)思う事がある。コミュニケーションというか、干渉と言うか
他人への関わりが極端に少なくなっているということだ。

今日の事だけど、みなとを大きな公園に連れて行っている時のこと。
大人も子供もわんさかいる中で、小学生くらいの女の子が遊具で遊んでいる時に
顔面を打つような転び方をした。相当痛かったと思う。
でも、だーれも、その女の子に対して声をかけない。
かく言う私も声をかけられなかった。泣きそうな顔で転んだ事を恥ずかしげにその場を去って行く後姿を
「いつ声をかけようか」と思いながら見送っただけで、自分も情けなかった。
他にも大人はいた。でもだーれもその女の子に声をかけることも目を向ける事もなかった。
「大丈夫かなぁ」と思う事はあっても、声をかけること自体がその子にとって 良い事か悪い事かわからない、
というはっきりしない部分があったと思う。

また先日、「朝日新聞」に載っていたけど、やはり他人とはなかなか触れ合ったりする事は
今の時代臆病になっていると言うか、自ら進んで取りにくい、との指摘が
ある事象を観察した感想として述べてあった。
ある事象と言うのが、昔の遊び(今は見ないなぁ・・)で「かごめかごめ」を複数の親子でする為に
輪になって、という指示が出た時に、輪にはなったが自分の子どもとだけ手を繋いで
片手は開けたまま並んだ、というものだった。
歌が始まれば手がつながるのか、と見ていたが、結局は2人一組のフォークダンスのように、
つながらないまま回り続けたらしい。
「人と関わる距離感が、つかめなくなっているのではないか。」と感じたそうである。

この記事「触れる指先 近づく心」の中でこうある。
臨床心理士の鈴木由美・聖徳大学助教授が「対人関係ゲーム」などを通し、
得たところは、「最近、体が触れるのを嫌がる学生が増えていると感じている」というものであった。
また、その「対人関係ゲーム」を考案した田上不二夫・筑波大学教授は、
「手が触れることに子供たちが敏感になっているのは、
自分を受け止めてもらえるのか不安だからではないか」
とみる、ともあった。
そういった思いが先にたち、触れ合うことや声をかけることに対し、
遠慮がちになっている現在の人と人との関わり合いが想像できる。


学校においてはどうだろう。こんな調子で触れ合うことはあんまり無いんじゃないかな・・。
だから触れ合うことの延長である自分が思ったこと(ホンネ)をそのまま話したりすることが難しく、
結局最後はしっかりした関係が持てず(薄い友達関係)、時折感じる孤独感も加わり、自分に自信が持てず、
何か訴えたくてもできず、不安のまま過して行っている、というのがあるんじゃないかな。


ところで。私は「エトセトラ♪」のページにもあるように
「Livly Island」でマイリヴを飼っている(現在ウォーム^^)。
たまに個人の島を渡り歩く「放浪」なるものをしているのだが、
他の方の島や島に付けたコメントなどを読むと、このゲームは結構学生もしているわけだけど
「〜は死ね」とか「ウザイ」とか最近の若者の良くない言葉の傾向そのままを表していて興味深い。
TVでも漫才とかで簡単に「死ね!」とかの台詞が出るし、それを問題視している新聞の投稿なども見つけることができるけど
それも分別ある大人には演技の一環として捉える事は可能なことだけど、
学生など良いもの悪いものを選別できない未熟なものに対しては
やはり好影響を与えるものではないのでは、と私JUNも考えてしまう。

そういった「死ね」「ウザイ」とか他の人を排除したり侮辱したりする言葉は
分別ある家庭では必ず、そういった言葉は使ってはならない言葉として教えられているはずだ。
というか、我が子が可愛くて大事なら余計に、そういうことを教えてあげなくてはならないと思っている。
「言葉」という事で思うんだけど、 (きっこのブログのきっこさん風に言えば 「”ダッフン”しちゃう」んだけど)、
これもここ数年(10年程か?)のことだと思うけど、若者の語彙がまっことに、すっくない!
街角でインタビューを受ければ、例えば映画の感想などを問われると、

「凄かった!」「ヨカッタ!」まあマシな方では「感動しました!」

おいおいおいおい!緊張する受け答えだろうが、もっと何かあるだろう!
というか、あるんだろうけど、多分言葉に出来ないんだろうと思う。
とりあえずは蓄積しているはずの語彙は以前と比べ確実にトータルヴォリュームとしては少なくなっている。

これは、コミュニケーション下手を象徴していると思う。

ハリウッド女優の「小雪」さん を見てみな!同じようなインタヴューでは結構自分の考えを
とりあえず色んな方面から表現してるぞ!渡辺謙さんも頑張って受け答えされてますよ!
それが演技だったとしても、色んな質問に答えるために語彙豊富な回答を用意していたとしても
それだけでも勉強しているというもんだ!(そんなコトは無いだろうけどね^^)
・・・というか何をいいたかったんだっけ?
あ、そうだ、「語彙」の問題だ。
「語彙」の問題も含めて、もう少し国語力をつけていった方がいいのでは、と思う。
人のコト言えないけどね・(´Д`υ)
でも言葉っていうのは人と人を繋ぐ。
表情や身振り手振りというのもそう。言葉も伝えたい事を伝える重要な音声上の手段だ。
その言葉が少なくなっているのは、言いたい事があるけど言えないと言う事。
例えれば「日常の会話は、この○個の中の言葉の中から選んで伝え合いましょう。」と
制限されているかのように、とっても分かり易い短い言葉で有名な(笑)だれ某の、
ワンフレーズコミュニケーションになっている感じがする。

まあ、「語彙」はちょっと置いておいて。

この事象でも象徴されるようにコミュニケーション不足というのは
集団・・例えば中学生のクラスなど・・結局集団で居ながら、
薄っすら個々は必要以上に独立している状態を引き起こしている可能性がある。
独立というか、「孤立」・・かな。
いい時はいいが、悪い時・・いじめられている時など・・SOS発信が他の人に届きにくいのでは、と思う。
SOS時に個々が独立しているのはまことに調子が悪いのだ。

ま、何においても大体そうだ。個々だと全くもって「弱い」。
訴訟にしてもそう。個々で訴えるより、同じ問題を抱えた集団で提訴する方が強い。
・・と話は元に戻すけど、例えば誰かが虐められている状況になっていても、
周りはなかなか声をかけられない。
コミュニケーション不足の為、どう声を掛けていいのかが、わからない。
良心を持っている者でさえも、今度は自分がその虐めのターゲットになってしまうのを恐れたり、
そのコミュニケーション不足のために、救いの手を差し伸べたいにも関わらず、
その手を差し出す取っ掛かり自体を難しく感じ、そのうち遠のいていく・・・。
そうやって虐められている者はますます「個」を深めていく。。。
(他にも、他を助けようと思いやりをもつ事自体が出来ていない。
つまり自分さえ良ければ、という感覚も親譲りで持っている者もいる。 これもまっことに、「癌」なんだけどね・汗)

コミュニケーション不足というか、仲が良い間で「つるむ」習慣が無いのか、
核家族化で集団に慣れていないのか、なーんか、困った時も独りぼっちに見える。
虐められた時も家族になかなか言えなかった例が、自殺した子供についての記事に書いてあった。
やはりなぁ・・・、コミュニケーション不足って結構関係あるんじゃないのかなぁ。
コミュニケーション不足って言うより、多分コミュニケーション「下手」なんだと 思う。


そうだ。誰かが虐められている時、何か助け舟を出したい時、こんなのはどうかな?

私JUNが小学校の頃、転向してきた生徒が言葉がヘンだといじめに遭っていた事がありました。
そしてそのいじめ現場に居合わせた時があって、私はなぜか頭が回って、こんな助け舟を入れた覚えがある。
「(虐められているコの)お母さんが今迎えに来ているよ!」なんてフツーに言って、
いじめをストップせざるを得ない状況にさせたわけ。
何も、「いじめなんて止めなさいよ!」なんて言っていない。
ちょっと工夫した言い訳なんかを考えて、助け出してやる方法もあるのだ。
そのコが可哀相と思ったのか、なんでか分からなかったけど、
私の中にある、「小さな良心」が働いたのだと思う。
そしてただ、そのコの側にいてあげようと思ったのだと思う、
その後そのコのお家に遊びに行った事もあったな。。昔の事だから忘れちゃったけどね。

2007/01/26 追記分
みんなも、誰かが虐められているのを見て、もし「小さな良心」があったなら
「なんとかできないかなぁ〜」なんて思う事もあるはず。
むげに乗り込んでいって逆ギレされてもナンだからね。
ピキピキッ!と少し頭を回して、さりげなーく虐めなんてサイテーの人間がすること、って
みんなに分からせるように伏線を張っておけば・・って・・ん?
これって、やっぱり先生の仕事なんじゃ???
そうですよ、きちんと伏線を張っておいてもらうんですよ、先生に←いやーっこれって、考えたら先生だけに責任負わせちゃいけないよ!
こう言う事をしておくのは家庭や、社会だよね。いけないものはいけない、人が嫌がることをしてはいけない、 思いやりの心を持って、
と教えるのは。(07/01/31)



(4)再び(2)で触れた、教師について


ふーむ。やっぱり学校という場所柄、そういう伏線張ったりするのって
先生が訂正:家庭や社会でやらなきゃいけないんじゃ??という話にやってきたぞ。

だって、生徒自身が自浄作用で持って、陰湿ないじめ人間を排除していくなんて
まあ幼いもの、無理だろうよ。
だったらやっぱり先生訂正:家庭や社会だわさ。現場を (訂正:学校現場を含め社会全体を)良い方向に引っ張っていく責任ある者としたらさ。
しかしどうなんだろう。↑で書いたように、教師もかなりの仕事量がある。
頭脳労働・体力労働・精神的負担(生徒の心配など)・その他雑務・・
未来を支える子供達の為だ、教師への期待は国家的レベルなのだ!

そんな期待を背負った先生方はこのようにかなり忙しい(・・ハズだ)。
だからそういった「いじめは悪いもの、犯罪なのである。お互いはいたわり合いを持って。」という
雰囲気作りを学校でする為には、忙しい先生方には申し訳ないが、
勿論、大きな取り決めをするのは国とか教育委員会などの所だろうけど
教師も(訂正:学校現場以外の大人も)協力して、何か子供の為に「虐め」という「悪」がはびこらないような工夫を
大人たちで作ってあげ必要があるよな。
学校という学び舎で、「虐め」などと言うとても邪魔臭いものがあるなら
子供は気になって学びにも腰が入らない、勉強どころではない状態になると思うから。
それどころかあまりの苦痛に、「死」へと向かう者もいるのだから。

勿論、そういった雰囲気作り(改革!)は社会で、家庭で、あらゆる場所で行っていかなければならない。
学校で起きたから、「それ学校だ!」とか「先生だ!」と決め付けるのではなく、
もっと根本的なところ、つまりみんなの心に関するところから治していかなくてはならないのだ。
そして大人がこれに対して本腰を入れる必要がある!!
いじめは自分達大人が今までやってきたことの鏡となって返って来ているのだから。

追記分終わり。
・・・つづく
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